大蛇斬り兼元の刀

関の孫六三本杉と俗称される濃州関の兼元は、三本杉と称せられる独特の焼刃とともに、切味をもって天下に鳴る名匠である。 その兼元の遺作の一つに、大蛇を切ったことを、刀の中心の銘に刻した脇差がある。銘は次のとおりである(下の写真参照) 兼元刀 天正20年上之 頼次 江州於石部 蛇(虵)切
兼元 本刀はもと約45cm以上の長脇差だったので、「上之」つまり短く磨き上げ、樋を彫り足したものである。そんなことをした「頼次」とは、土岐左馬助頼次であろう。 頼次は土岐美濃守頼芸の次男だったが、兄の宮田少輔頼栄が早世したので、土岐家の家督をついだ人である。 父頼芸が斎藤道三に国を奪われたあと、濃州岐禮郷(天台宗谷汲山華厳寺の近く)に蟄居していた。 豊臣秀吉が天下をとると、天正15年、河内国古市(羽曳野市)において、五百石の領地を与えられた。徳川家康は、頼次を土岐家の嫡流とみなし、源三位頼政が朝廷から賜った「獅子王の剣」を、頼次に与えた。 子の頼勝は一千石に増加され、高家に列せられている。 つぎの銘の「於石部」の石部は、江州甲賀郡石部(滋賀県)であろう。ここは昔の東海道が通っている宿場町だった。ここに頼次は、何の要事があって行ったのか、それには二つ考えられる。 一つは、天正20年(1592)といえば、父頼芸の十周忌にあたる。 その墓のある岐禮郷に行ったついでに、立ち寄ったのか、二つには、江州では、天正19年から、太閤検地が始まっていた。 頼次は500石くらいの小役人である。検地に狩り出され、石部の山野を回っているうちに、大蛇に出会って、それを兼元の脇差で一刀両断した。そのため刀が汚れたので、短く磨きあげたことも考えられる。 最後の「蛇切」という銘字であるが、蛇の字の旁が「也」になっている。古文書や古記録を見馴れた人ならば一見して「蛇」と読むはずである。 その銘字の也は、第三画が上の方に長く、にょろにょろと伸びている。蛇の字であることを意識して、こううねらしたものである。 蛇の字の虫偏は、無学な者が、しかも見馴れない字を切ったので、少し変則になっているが、虫の字の上にノの字を一つ書き添えることは、古文書や書道の本では珍しくない。刀剣書でも「古今鍛冶備考」第1巻銘寄三で、小鍛冶宗近の項をみると「蝉丸」の虫偏の上に、ノの字が一つ書き添えてある。 ノの字でなく、一の字にしたのは希であるが、「薬師寺大般若経」をはじめ、古写経などには見られる。 虫の字の第三画を欠くが、頼の字の扁の四角も、第三画はないから、この鍛冶の手癖ということになる。虫の字の第六画には点を打つのを忘れている。 第五画のノの字が下がりすぎて「切」の扁に近いため、干のように見えている。切の字の扁七を、十と書くことは書聖・王義之をはじめ、碑文に多くみられる。わが国でも古写経にしばしば見受けられる。 本刀の蛇切は大蛇を切ったという意味であろうから、ヘビ切りではなく、ジャ切りと読むべきであろう。

日本刀名工伝より