楠正成の怨霊と包丁藤四郎

建武3年(1336)5月25日、湊川(神戸市生田区)において、誠忠楠正成を自尽に追い込んだのは、伊予国松崎(愛媛県伊予郡松前町)の住人、大森彦七だった。その殊勲に対して足利尊氏は広大な領地を与えたので、彦七は一躍、豪族の列に入ることになった。 ところが凡人の悲しさ、いわゆる成金根性で彦七も宴遊・猿楽などにうつつをぬかす日々となった。とくに猿楽にめり込んで、松崎の山際に桟敷をこしらえ、自らも出演するという、のぼせようであった。暦応5年(1342)松崎の名刹・金蓮寺の春祭りの当日、彦七はもうじっとしていられなかった。 「一さし舞って、領民どもを喜ばしてやるか」 自惚れと瘡気はなんとやら、自分の舞に自惚れの強い彦七は、いそいそと屋敷をあとに金蓮寺へと向かった。途中、茄ケ窪にさしかかった ところで、年のころは17、8か、緋の袴に五つ衣を、たおやかに着こなした美女が、どちらに行ったらよいのか、思案にくれているのに出くわした。彦七が冗談まじりに、ついに口を出した。 「手前が負んぶしようか」 その声を待っていましたとばかり、その美女は流し目に彦七を見ながら、 「では、お言葉にあまえまして・・・・・・」 と、案に相違して、いそいそ身を寄せてきた。彦七が瓢箪から駒に、なかばあきれながら、背中を差し出すと、女は恥かし気もなく、その背中にしがみついた。彦七はもともと土佐の山奥に住む猟師の子で、鹿や猪をひねり倒すほどの怪力の持ち主だった。 初め女の体は蝉がとまったほどにしか感じなかった。 50mほど行ったところで、女の体が急に重くなった。おや、と思って、肩越しに振り返ったところ、さすがの彦七も思わず足がすくんでしまった。美女変じて鬼女の顔になっているではないか。さらに身の丈2m余りに伸び、眼は赤く血走り、口は耳元まで裂け、振り分け髪の下から、牛の角と見まごうほどの角が2本、にゅっと突き出ているではないか。 見るなり彦七は腰がぬけて、そこにへたりこんだ。すると、鬼女は彦七の髻を掴んで、虚空にとび上がった。さわさせじ、と彦七が鬼女に飛びついたので、二人はもみ合いながらドブーンとばかり、深田のなかに転げ落ちた。それまであっけにとられ、あれよあれよ、見送ってばかりいた家来たちが、我に帰って、主人の一大事とばかり駆け寄って来た。 鬼女は、多勢に無勢、これではかなわじ、と見てとったか、彦七の体をすてて、虚空高く舞い上がり、雲を霞と消え去った。 いっぽう深田に茫然自失、こわれた偶像になっている彦七を家来たちが抱き起こしてみると、鬼女に精気をすいとられたか、ただ口をぽかーんとあけ、うつろな眼で虚空を見上げているだけだった。 その視線の先を見上げている家来に対して、虚空から鬼女の声が返ってきた。 「わらわは楠正成の怨霊なるぞ。湊川の恨み、いかで晴らさずにおくべきか」 当時死者の怨霊が祟りをなす、という信仰は広く浸透していた。彦七や家来たちは、楠正成の怨霊の祟り説を、素直に信じて疑わなかった。 とくに彦七に対しては、その後もたびたび祟りをなした。たまりかねた彦七は、領内の僧侶をたくさん集めて、大般若経供養をしてもらったところ、怨霊からの恨み言は聞こえなくなったという。 以上は『太平記』を主とした資料の説であるが、古剣書の説くところは、大いに趣を異にしている。室町初期の「能阿弥本」には大森彦七を「駿河国大森の彦七」と呼んでいる。駿河の大森は、富士山系の南端、愛鷹山の東麓にひろがる裾野市内にあったが、現在は小字名にも残っていない。室町初期には関所もあった。そこを護っていたのが大森氏のはずである。大森氏は建武の中興のさい、初めは朝廷方だったが、のちには足利方についている。すると、湊川の戦では、足利方として楠正成を攻撃したことは考えられる。 彦七が楠正成を敗死させた当事者だったかどうかは別として、彦七は戦功によって讃岐国(香川県)を与えられたという。 承久の乱(1219)のさい、崇徳上皇が配流されていた志度(香川県大川郡)に、彦七は館を構えていたらしい。ここは謡曲「海女」にゆかりの八十六番札所、志度寺のある名所である。 そこに勧進猿楽、つまり寄付金集めの猿楽があるというので、彦七も庶民のふりして見に行った。どっかと腰をおろしたすぐ前に、たまたま年のころは20ばかり、鄙には希な美女が座っていた。身なりからも尋常の家の女と思えない。たきしめた香の匂いがぷんぷん鼻をうつので彦七は猿楽よりそれに気をとられて、そわそわ落ち着かなかった。そうこうしているうちに、空模様が怪しくなり、やがて大粒の雨が降りはじめた。それに合奏するように、ぴかぴかどーんと、稲妻がいきなり桟敷を斜めに走った。 彦七が困ったな、と腰を上げた途端、前の美女がふと後ろを振り向いた。二人の眼と目が合った瞬間、美女の顔がパッと鬼女に早代わりして、彦七につかみかかってきた。そして彦七の腰の小さ刀(短刀)を奪おうと手を伸ばしてきた。 「なに致す?」 と言うが早いか、彦七は腰をひねって抜刀、鬼女の手を切りつけた。キャッ、と異様な叫び声とともに吸い上げられるように、すーっと雲間に姿を消した。 彦七はこの奇怪な椿事があって以後、腑抜けの体になって、床についてしまった。家来たちが心配して、やれ薬だ、お祓いだと手をつくすかたわら、あの鬼女の正体はいったい何だろうということになった。いろいろ詮議したすえ、千早城の兵糧攻めのさい、多くの死者がでたことへの楠正成の怨霊や、壇ノ浦の藻屑となった平家の能登守教経の怨霊だろうという結論になった。 さらに、怨霊が狙うのは彦七の小さ刀である。その警護を厳重にすべきだ、ということになり、家来たちが夜通し寝ずの番で見張っていた。だが、それが毎晩続くとスタミナを消耗すること甚だしい。とうとう音をあげた家来たちが、何かよい代案はないか、と相談しているうち、一人が遠慮がちに提案した。 「禅宗の坊さまを頼んできて、ここで座禅してもらったらどうやろ」 なるほど、一晩中、座禅してもらっていれば怨霊も怖がって近づかないだろう。それは名案だと、兄貴分がお寺に頼みに行った。 お寺にしても、お布施がたんともらえる。二つ返事で、よろしいと承諾してくれた。 家来たちは、ああ、これで安心と高いびきで寝ていた。だが、鬼女もさるもの、新手を考えた。真夜中、大きな蜘蛛に化けて、天井からするすると下りてきた。尻から大きな糸を出して、白河夜船の家来たちの髻に、一つ一つ巻きつけていった。その作業が終わると、蜘蛛はひひっと薄気味悪い笑いをのこして、天井裏へとすーっと姿をかくした。それと引き換えに、今度は鬼女が豪雨と稲妻を伴奏にして、ぬっと姿をあらわした。つかつかと病床の彦七に近寄ると、いきなり彦七の襟首をひっつかみ、暗闇の虚空へとかけ登り、姿を消した。 家来たちは物音に驚き、眼がさめたが、彦七を助けようにも、髻を蜘蛛の糸でつながれているため、身体の動きがとれない。あれよ、あれよと見守っているほかなかった。おのれの不甲斐なさに、悲憤の涙にくれるばかりであった。しばらくすると、こんどは屋根の上で、ドシンと何か重い物が落ちてきたような、にぶい音が伝わってきた。 「いったい真夜中に、あんな音なんだろう? 若い者ども、いって見てこいや」 兄貴分のいいつけで、若い者が家の軒に梯子をかけ、松明をかざして屋根へ登ってみると、なんと、彦七が半死半生、息も絶え絶えになって、放り出されていた。殿、殿と声をかけると、苦しい息の下から、やっと返事が返ってきた。 「腰の刀を奪われた。これでは武士として面目ない、もう生きている甲斐がない」 これだけ言うだけで、もうぐったりなった。家来たちが、 「殿、殿、しっかりなされよ」 と、励ましていると、それをあざ笑うように、天高く、えい、えい、おう、と呼ぶときの声が、夜のしじまを破って聞こえてきた。 それが終わると、こんどは庭に、ドシンー、と黒い毬のようなものが落ちてきた。 家来たちが駆け寄ってみると、松明の光に照らし出されたのは、舌だけ残った蠋髏(しゃれこうべ)と、奪われた小さ刀とを、縄で結びつけたものだった。 取り上げてみると、その蠋髏は、彦七が湊川で敗死させた楠正成のそれだった。それで鬼女は、正成の怨霊だろう、ということになった怨霊が広く信じられていた当時としては、当然の解釈だった。その後、怨霊らしい変事がおこらなくなったのは、正成の怨霊が彦七を悶死させたことで、恨みが消えたのだろう。彦七の小さ刀は、以上のような奇しき歴史を秘めた宝剣として、やがて足利将軍家の御物となった。”包丁藤四郎”と呼ばれた名物が、それであるという。 藤四郎とはこれを作った刀鍛冶の通称で、工銘は吉光という。京都粟田口(東山区粟田口鍛冶町)の住人で、短刀打ちの名人だった。 彦七の小さ刀は、初めから包丁藤四郎と呼ばれていた訳ではない。包丁という異名を冠するのは、刀身の幅が包丁のように、広いものに対してである。ところが、この包丁藤四郎の身幅は約2cm弱で、むしろ身幅の狭いほうに属する。すると、この包丁藤四郎の包丁は、身幅からではなく、料理の包丁から採ったとみるべきである。 この料理の包丁というのは、刃物の包丁ではなく、昔からある包丁道のことである。包丁道では、包丁を真魚箸(まなばし)だけで手を触れることなく、鯉などを料理していた。 応仁(1467)のころ、京都所司代まで務めた多賀豊後守高忠は、包丁の名人だった。鶴の料理を頼まれたとき、何者かが鶴の体内に、鉄の箸を突き通していた。それを察知した高忠が、この小さ刀で、見事に断ち切った。それで、この小さ刀に初めて、”包丁藤四郎”という異名がついたのである。

日本刀名工伝より