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化物斬った「にっかり青江」


香川県の丸亀城は、同国高松城主・生駒親正が西讃岐の抑えとして、慶長2年(1597)から標高67mの亀山に築城をはじめ、同7年に完成したものである。しかし、完成の喜びの裏には、一つの哀話が秘められていた。
丸亀城の石垣は高く、それが扇状の美しいカーブを描いている。この芸術的石垣を築いた石工の棟梁、羽板重三郎は石垣の隙間に鉄棒をさしこみ、今日のロック・クライミングのようにして、石垣をやすやすと登っていた。巡視にきてそれを、ちらっと見た生駒親正は、これをまねる者が出たら大変と工事が終ると同時に、重三郎の人生に終止符を打った。
この非情な仕打ちは、親の因果が子孫にむくいたか、曾孫の高俊は、菽と麦の区別もわからぬ、暗愚な男だ った。それを知った幕府は、藩を17万石から1万石におとし、身は出羽の矢島(秋田県由利郡)に配流とした。1万石でも大名の末席にかじりついてはいたが、子の高清になると、とうとう8千石の寄合、つまり大名の席から転げ落ちてしまった。
生駒家のあとには、寛永18年(1641)、山崎家治が5万石の城主として入封してきたが、まだ重三郎の怨念は消えていなかったとみえ、孫の治頼がわずか8歳のつぼみで散り、お家断絶となった。そのあとに万治元年(1658)6万余石の城主として、入封してきた京極高和は、幽霊を斬ったという"名物"の刀を持っていたので何らの祟りもなく、明治維新まで連綿7代つづき、子爵として有終の美を飾った。
その幽霊斬りの名物刀は、もと2尺5寸と長かったので、1尺9寸9分に磨き上げてしまった。それで刀身の中心(なかご)のあった金象嵌の所持銘が「羽柴五郎左衛門尉長」で切れている。
羽柴とは、豊臣秀吉の若いときの苗字である。秀吉はまだ軽輩だったころ、丹羽長秀の智謀と、柴田勝家の勇猛ぶりに憧れていた。秀吉より長秀は2歳、勝家は15歳の年少だったにも拘らず、辞を低くして、両名の苗字の1字をもらいうけ丹羽の羽、柴田の柴をとり、合字して羽柴を名乗ることにした。
それは秀吉の憧れから、という児戯ではなく、そうす ることによって、両将の歓心をかい、庇護を受けようとする高等戦術だったはずである。
それが見事に開花し結実して、主君織田信長亡き後、並びなき天下人となると、昔なつかしい羽柴の姓を、武将たちに分かち与えていた。では、この名物刀にある「羽柴五郎左衛門尉長□」とはいったい誰だろうか−−。五郎左衛門でまっさきに想起するのは、丹羽五郎左衛門長秀である。しかし、羽柴の羽の字をくれた人に与えるのはおかしいというより失礼にあたる。長秀ではないはずである。だが、子の長重は五郎左衛門を襲名していた。
その長重は天正15年(1587)九州攻めのさい部下の軍律違反のかどにより加賀松任(石川県)4万石に減封となっている。しかし、それから5年後の朝鮮出兵のさいは、羽柴侍従と呼ばれている。すると、名物刀の 金象嵌にある「羽柴五郎左衛門尉長□」とは長重の重の字を磨き上げのさい切り取ったものということになる。
昔の人は、重の字の1つくらい何故残しておかなかったか、疑問の起るところである。父の長秀は豊臣秀吉によく協力して、112万石という超大大名だった。
嗣子の長重は、家臣の不始末のかどにより、わずか4万石の小名に転落していた。さらに関ヶ原合戦で、石田三成方についたため、全所領を没収され、一介の素浪人になり果てていた。その後、1万石に返り咲いたのをきっかけに死ぬときは10万石にまで増封になったが、父に比べたら十分の一にも達しない零落の一生だった。そんな不孝者の名など欲しくないという律儀な考えから、重の字を切り取ったのではあるまいか。そうしておけば立身伝中の人、父長秀と解釈してくれるからである。
この名物刀が、幽霊斬りを演じた物語には3説ある
@『享保名物帳』説
これは8代将軍吉宗の命により本阿弥家で天下の名物刀をあげ、その由緒をしるした『名物帳』にある説である。江州蒲生郡八幡山といえば今の滋賀県近江八幡市八幡町の北部にある標高285mの丘である。ここに天正13年(1585)豊臣秀吉が築城している。しかし、それ以前のことであろう。この付近の領主に中島修理大夫または中島九理太夫とかいう者がいた。以上のどちらかが、領内に化物が出るという噂を耳にした。
「それは領主として棄ておきがたい。退治してやるわ」
こう宣言して、手練れの一刀、備中青江(丘玉県倉敷市上東)鍛冶の業物を腰に足音高く出て行った。月もない夜道を、四方に眼をくばりながら辿っていると、向こうから誰かやってくる気配がする。石灯籠のところで待っていると、石灯籠のあわい光に照らし出されたのは子供を抱いた女だった。
女は子供を地におろし、にっこりと笑っている。
「さぁ、いってお殿様に抱いておもらい」
子供はその一言に、よちよち歩いて領主に抱きついて来ようとした。これが化物か、と直感した領主は、右足を一歩ひいて、抜き打ちに横に払った。その瞬間、子供の姿はぷっつり消えうせた。その代わり、こんどは女か。
「私も抱いて・・・・・」
にっこり笑って頸をかしげ近寄ってきた。
「おのれもか!」
返す刀で、また横にはらうと確かに手応えがあった。その瞬間またもや女の姿はボーッとぼやけて見えなくなった。
翌朝早く起きて興味津々、昨夜切ってすてた化物の死体見たさに、現場に行ってみた。だが、女の死体らしいものはない。ふと路端に眼をやると、苔むした石塔が二基立っていた。二つとも首とおぼしき所から切り落とされ、その上部が下に転げ落ちていた。
「化物の正体見たり、枯れ尾花とは、このことか」
領主は苦笑いしながら立ち去った。こんなことがあってから、その刀を”にっかり青江”と呼ぶようになったという。
A『常山紀談』説
浅野長政は豊臣秀吉の若い頃、兄弟の約をとりかわした仲だけに、秀吉を助けて、しばしば大功をたてさせた。天正11年(1582)強敵の柴田勝家を自刃させ、覇権をにぎると、多年の功を認めて、長政を近江(滋賀県)の甲賀・栗太両郡のうち、2万300石を与えた。
その浅野の家臣某が所用あって、甲賀郡から鈴鹿山脈を越えて伊勢(三重県)へ旅したことがあった。路を急ぐあまり、夜道を歩いていると、道端に若い女が立っているのが夜眼にも見えた。こんな人煙まれな山道にしかも夜間若い女がいるはずがない。不審がりながら近寄っていくと、その女がにっこり笑いかけてきた。
その瞬間、その家臣某は無意識に刀をぬいて女に斬りつけていた。女の首が髪の毛をあとに引きながら、ぽたりと地面に転げ落ちた。翌日、帰りがけにそこに通りかかった。この辺だった、とよく見ると石地蔵の首が草むらの中に淋しく一つ転がっていた。その話しが領内に広がると誰いうとなくその刀を゛にっかり青江゛と呼ぶようになったという。
日本刀おもしろ話より

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