酒呑童子斬り安綱

 著者らが小学校の4年生のとき、国語読本には、大江山の酒呑童子の話が、挿画付きで載っていた。誰でも知って話だった。 戦後も童話・漫画・アニメなどに、出てくるそうだから、ある程度は知られているだろう。 地もとの大江町(京都府加佐郡)でも、平成5年「日本の鬼の交流博物館」を建設、酒呑童子物語の普及に乗り出している。  北近畿タンゴ鉄道の大江駅に下車、駅前の鬼瓦公園を見たあと、車で北上、175号線から分かれて、府道綾部大江宮津線に入ると、間もなく右手に元伊勢外宮・豊受大神社、ついで左手に元伊勢内宮・皇大神社の入口をしめす標識が見える。 これら二社は地元の伝承によれば、現在の伊勢神宮の地に鎮座ましますまで、54年間はここにあったことになている。  これらを伏し拝んでからさらに北上、仏性寺地区に入ると左手の山のうえに、酒呑童子征伐の大将・源頼光の腰掛石という、巨大な岩がある。 その前には、鬼の足跡と称する長楕円形の凹みが二つあって、水がたまり、そのうえに落葉が浮いている。この凹みはいわゆる甌穴である。 太古には今数十m下を流れている二瀬川が、ここを流れていたことになる。自然の営みの凄さには、おのずと頭がさがる。  それからさらに北上、「日本の鬼の交流博物館」を見学したと、2kmほど北上して、普甲峠の手前から左折、九十九折りの山路にかかると、車のスピードものろのろとなる。 ふと左側の山裾をみると、カラオケの店の看板がかかっている。こんな人煙希れな所に、と不思議がっていると、今は自家用車で乗りつけるので、遠さなど問題にならないとのことだった。  そこから西の空を仰ぐと、大江山連峰が空高く、薄い雲におおわれてそびえているのが見えている。 そこをめざして3.5km余、ハンドルを右に左に切りかえながら登っていくと、航空管制塔のある頂上に達する。 ここで車をすてて左折し、大江山の尾根を500mほど西に向かって行くと、いわゆる"鬼の岩屋"の案内板がある。 それに従って北に向かい、10mもおりていくと右手の崖の下に鬼の岩屋が、黒黒と口をあけている。  その入口には、高さは人の背丈ぐらいあるが、横幅が狭い。体を横にしてもまず入れまい。内部は案内板によれば、入口から斜めに2mくらい下りると、地面は平地になっている。 そこを6mくらい奥に進めば、3mくらいの崖になっている。そこを下に下りると、幅6mくらいの平地になる。酒呑童子がここに住んでいたとすれば、ここに筵でも敷いて住んでいたはずである。  なお、入口から斜め上を見ると、草木におおわれているが、もう一つ入口があったようである子分たちの入口だったであろうか。 しかし、ここには落盤によって生じた、垂直の穴らしい、今も落盤の危険があるので、岩屋の立入りは禁止されている。なお、ここは大江山の文水嶺からわずかに西側になっているので、大江町ではなく、西隣の与謝郡加悦町の内である。 道理で大江町発行の観光パンフレットをみても、鬼の岩屋の紹介がないわけである。  酒呑童子物語の発祥はふめいであるが、これを描いた『大江山絵巻』(逸翁美術館蔵)の作成年代が、南北朝時代と推定されている。 この物語が中国の梁時代(西暦502~557年)、江総が書いた『白猿伝』を、換骨脱胎したものであることは、貝原益軒がつとに指摘したとおりである。 なお、酒呑童子を斬った源頼光の伝記を見ても、酒呑童子を斬ったことは見当たらない。  以下で、明白なフィクションであることは、明伯であるにも拘らず、酒呑童子を斬ったという刀が現存している。まったくおかしな話である。では、刀剣界ではどんな話になっているであろうか──。  その酒呑童子を斬ったという刀は、伯耆国(鳥取県)の住人・安綱の作である。その、"童子斬り安綱"に言及している最古の古剣書は、室町初期の『能阿弥本』である。 これには初め征夷大将軍・坂上田村麻呂が、伊勢神宮に奉納しておいたものを、酒呑童子征伐の大将・源頼光が、夢想のお告げによりもらいうけて、酒呑童子を斬ったとある。 ところが、田村麻呂は平安朝初期の人だが、童子斬り安綱は、その作風がらみて、平安朝工期の作であるから、時代が合わないことになる。  南朝の忠臣・新田義貞の佩刀、とする説がる。これは源氏の重宝”鬼切り”と混同したものである。鬼切りは、古剣書にはただ鬼切りとあって、酒呑童子とは書いてない。酒呑童子切りは新井白石によりば、室町時代には、幕府の評定衆・摂津家に伝来していたという。 しかし、摂津家は酒呑童子征伐に行ったという、源頼光の子孫である。それで酒呑童子斬りは、摂津家にあるはずとしたような気分がする。  室町末期になると、足利将軍義輝から織田信長をへて、豊臣秀吉に伝わったという。なるほど豊臣家の蔵刀を写した『光徳刀絵図』に、安綱の刀は載っているが、それは酒呑童子切り安綱とは異なる。  秀吉が徳川家康に贈ったので、家康はそれを二代将軍秀忠に譲ったという。秀忠は三女の勝姫が、慶長16年(1611)、秀忠の甥・松平忠直に興入れしたとき、勝姫の守刀として持たしてやったとも、忠直に婿引出しとして贈ったともいう。  しかし、忠直の子孫である作州津山(岡山県)の松平家の所伝によると、忠直の父・秀康は、家康の二男であるが、天正18年(1590)下総結城(茨城県)の城主・結城晴朝の養子になったとき、同家伝来の安綱を譲られた。 それが酒呑童子斬り安綱だったともいう。 だが、忠直は家康から譲られたので、夫人勝姫の守刀にしたという。それの鞘書に「童子切 二尺六寸五分(約80.3cm) (裏)鎺元にて約壱寸(3.03cm) 横手にて約六分半(1.97cm) 重ね厚さ弐分(約0.6cm)」とあるのは、勝姫の筆跡だろうという。 しかし、忠直は乱行の故をもって、元和9年(1623)豊後国萩原(大分市)に流罪となった。そのとき嗣子の光長はまだ九歳の少年だったので、母の勝姫が預かっていて、そのとき書いたのであろうとも言われている。  光長がまだ子供のころの話として、夜な夜なうなされて泣くので、御殿医に見てもらったところ、疳の虫という診断だった。そのためさまざまな治療がなされていたが、いっこうに効果がない。寺社の祈祷やお守りもやっぱり同じだった。一同困り果てていると、お側付きの一人が、  「あの童子斬りの刀を、枕辺においてみては?」  と提案した。無駄とは思いながら、薬をもすがる思いの時である。言うとおりに童子斬りを枕辺においてみたところ、その晩から夜泣きは、ぴたりと止まったという。 この話が拡大されて、童子斬りは弧憑きもなおす、という迷信まで生まれた。  光長がやがて成人して、越後高田(新潟県上越市)の城主となった頃、奇人刀工として知られた大村加トは、外科医として仕えていた。 それが童子斬りをたびたび拝見したとみえ、自著『剣刀秘宝』に、童子斬りの鍛法をくわしく述べたあと、変なことを書いている。  童子斬りはもともと安綱が、竜宮に献上しておいたところ、江豚という鯨の一種が呑み込んでしまった。それから百余年後、江豚の腹から取り出してみると、幸運にも少しも錆びていなかった。 それからさらに幾百年後に、どういう経路をたどったのか、南朝の忠臣・新田義貞の手に入った。喜んで鎌倉攻めのとき佩いて行ったが、稲村ヶ崎が満ち潮で渡れない。それで引き潮にしてもらうため、愛着をすてて海に投じ、竜宮に返したところ、潮が1km余(十町)も、みるみる引いた。 それで見事鎌倉に攻め入ることができた、と加トは見てきたようなウソを書いている。  光長はいわゆる越後騒動に巻きこまれて、天和元年(1681)伊予の松山(愛媛県)で、哀しくも流罪の月を眺める身に落ちた。 7年後、赦免となり江戸に帰ってきた。その間、童子斬りは手入れする者もいなかったとみえ、刀身には胡麻をまいたような、おわゆる胡麻錆が点々とついていた。 その錆を落とすため、腰物係がそれを、上野広小持(台東区上野)の本阿弥家にもっていった。  ところが、その朝、多くの弧が、神田の筋違い橋(千代田区神田須田町一丁目)のひから、上野谷中(豊島区)のほうへ大移動してきた。それを見た人々は、童子斬りが本阿弥家に来たからだろう、と噂し合ったという。 すると、当時狐は童子斬りを、自分たちを保護してくれるもの、と考えていたことになる。  本阿弥家で童子斬りを預かっていたころのこと──、隣家に江戸の花・火事がおこった。すると、本阿弥家の屋根のうえに、一匹の白狐があらわれ、転んだり起きたり、いかにも苦悶の様子だった。 それに気付いた本阿弥家の者が、  「あっ、まだ童子斬りを持ち出していない。狐が知らせているんだ」  と叫びながら、火の粉をくぐって部屋に飛びこみ、無事童子斬りを持ち出したところ、屋根のうえから白狐の姿は、ぷっつりみえなくなったという。  光長は赦免後も賄量料三万石にすぎなかったが、元禄10年(1697)養子宣富が家督相続して、作州津山(岡山県)十万石の大名となった。 そのころ同家には、町田長太夫という試し斬りの達人がいた。それに童子斬りを試させたところ、六つ胴敷き腕、土壇払い、つまり六人の死体を重ね積みし、腕をまっ直ぐ伸ばした姿勢にしておいて、一刀両断した余勢で、下の土の台まで切りこむ、という放れ業を示した。  そんなに多人数を積み重ねておいて斬る場合は、斬り手は台のうえから、飛びおりながら刀を振りおろす。なお、刀には鉛の鍔をつけ、刀の重量を重くしておいて切る。 しかし、よほどの達人でなければ、六つ胴落としなど出来るものではない。刀よし、人よしの刀人一如の妙技ということになる。  ところが、童子斬りは明暦(1657)1月18日、いわゆる振り袖火事で、津山藩邸も灰燼に帰した。そのため童子斬りも焼け身になった、という説がある。 もしそれが真実ならば、町田長太夫の試し斬りは、振り袖火事の後である。焼け身を焼き直したとしても、そんな素晴らしい切れ味を示すはずがない。 なお、現在拝見しても焼き直し物とは見えない。やはり松平家の重宝だから、何より先に避難させたはずである。  貞亨(1684)のころ、本阿弥家で童子斬りと、名物の石田正宗を並べてみて、比較してことがある。並みいるいずれにも、  「やはり童子斬りのほうが、よく出来ているのう」  と、童子斬りに軍配をあげたという。  貞亨4年(1719)、八代将軍吉宗の命によって、天下の名刀をピックアップして、『名物帳』を作ったとき、童子斬りも”名物”として、その中に記載されている。 さらに幕末になると、俗にいう"天下五剣"の一つにも選ばれている。昭和8年1月23日付けをもって、松平康春子爵名義で国宝に認定されている。  終戦後、同家から石黒久麻呂氏が8万円で引き出し、それを玉利三之助氏が10万円で入手、村山寛二氏に譲渡、村山氏が昭和26年ごろ、それを抵当にして、渡辺三郎氏から金50万円を借りた。それの返済がすまないうちに、渡辺氏が急死した。 氏の遺族は村山氏に対して、 「いや、父が買い取ったものです」  と主張したので裁判となった。玉利氏の買い値10万円のなかには、故村上孝介氏も若干出資していたため、裁判中は村上氏が預かり、氏の勤務先の日本医師会の金庫に預けてあった。 10年以上も争ったすえ、昭和38年、最高裁判所で示談が成立した。それを文化庁が、二千六百万円で買いあげたので、村山氏が二千万円、渡辺氏が六百万円、と両家で分けたという。村山氏はかつての出資金を、玉利氏が返済してくれると思っていたところ、 「玉利のやつ、姿をくらましおった」  と言って、一杯くわされたことを悔しがっていた。  因みに、江戸城の紅葉山宝蔵に、源頼光が大江山の酒呑童子を斬った、という刃長約78・8cm(二尺六寸)、黄金造りの太刀があった。 しかし、刀身は藤原国政作という。 しかし、藤原国政という刀工は、平安朝期にはいない。江戸初期の藤原国政に相違ない。紅葉山宝蔵にはそのほかにも、吹き出しそうになる偽物が、まだ相当あった。江戸城内は狸の化かし合いだったようである。

日本刀名工伝より