昨日の遊び人・金さんが、今日は遠山左衛門尉様と、ご出座で早変わりする名奉行は、今もテレビの人気番組になっている。
それで背中の桜の入墨をを見せて、勢いよく啖呵をきるのは、お馴染みのシーンであるが、ほんとうの入墨はもっと凄いものだった。
美人の生首が、黒髪をふり乱し、口にくわえた手紙が肘まで垂れている、という凄惨なものだったという。
当時、歌舞伎役者狂言の作者として、有名だった並木五瓶(2代目)と、酒のうえであろうが、喧嘩となった時、金さんが肩肌ぬいだので、その入墨を見て、みんな肝を冷やしたという。
なお、芝居三座の一つ、木挽町(中央区銀座)の森田座の囃子方に、吉村金四郎の名で出演していたともいう。あの気性だから、金さんは太鼓を勢いよくたたいていたのであろう。その自由奔放な生活も、文政8年(1825)3月15日、将軍へのお目見えをすますと、終止符を打たざるを得なかった。
そしてまともな生活に入ったのが、認められたとみえ、同年12月9日には、小納戸入りを命じられた。時に金さんこと景元は、すでに45歳、そんなに就職がおくれたのは、やはり遊び人金さん時代が、祟ったことになる。
景元の改心、更正が認められて、天保3年(1832)には、西ノ丸小納戸頭取格に引き上げられた。
それには役料がついていて、石高も総計千石を越えた。さらに大隅守にも任じられた。天保6年(1835)2千石高の小普請奉行に登用されると、俄然、将軍よりしきりに恩寵をうける身となった。
天保7年3月29日、西ノ丸の大奥表御膳所や、新建の北側長局(つぼね)の工事に対するご褒美として時服と黄金を拝領した。
同年10月6日、浜御殿における、茶室の水道工事の功に対して、黄金と時服を拝領。さらに、浜御殿の庭の修復に対して、時服を拝領。同月18日、大奥の建物修復に対して、時服と黄金を拝領しました。
父景晋(500石)は、我が子がしばしば恩寵をうける身となったのを見届け、安心したとみえ隠居した景元は家督相続したので、大隅守を返上、父の左衛門尉に転任した。官位からいえば、大隅守は正六位下、左衛門尉は、大尉ならば正七位下、小尉ならば従七位上、つまり格下になったことになる。
しかし、当時は官位の上下など念頭になく、ただ親の役名を踏襲すれば、正式に家督相続したことになり、二男以下を威服させることになった。
同月22日、遠山左衛門尉の名で西ノ丸の大奥の建物の修復、新建に対して、時服と黄金を拝領。
同月24日、大奥と長局修復の功に対して、時服と黄金を拝領しました。
天保8年(1837)2月19日、西ノ丸の表門・米つき小屋などの工事に対して、時服を拝領。などと数えきれないほど建物工事を担当し貢献してきたので、同年5月13日、2千石高の作事奉行に転任、200俵の増加があった。
同年10月10日、11日、22日、同年11月9日、同年12月29日にも時服や黄金などを拝領しました。
天保9年正月25日、作事奉行の定員は2名で、うち1名は寛文2年(1663)から、宗門改め役を兼務することになっていたので、そのたび景元がそれを担当することになった。これから景元が裁判に腕を見せることになる。
同年2月3日、西ノ丸大奥の新築工事に対して、時服と黄金を拝領。
同月12日、勘定奉行に転任。勘定奉行は享保6年(1721)から、勝手方(財政担当)と公事方(警察担当)に二分されていた。
景元は公事方を担当することとなった。公事方は幕領・私領の訴訟、私領の百姓の刑罰などを担当。なお、最高裁判所ともいうべき評定所にも出仕していた。
金さんが武士に対する裁判のさい、「なお、評定所から、厳しいご沙汰がある」
と予告するのは、勘定奉行も評定所の一員だったからである。
勘定奉行は役高3千石と役金300両、公事方になると、さらに70両が追加されていた。
景元は公事方としての手腕をかわれ、天保11年(1840)3月2日、北町奉行に転任となった。
席次は町奉行が勘定奉行より上で、役高も同じく3千石だったが、役金が2千両と、桁違いに多かった。
密偵をやとうなど、機密費が必要だったからである。
景元は就任以来、満1か年をすぎ、名奉行の声が高くなったところで、天保12年5月15日、老中・水野忠邦の「天保の改革」宣言に遭遇してしまった。それは自由気侭な生活体験をもつ景元にとっては、はい、ごもっとも、と素直に容認できるものではなかった。
水野の目指す改革の目玉に、贅沢禁止があった。それの具体的な例として、祭礼のときの芝居、見世物はもとより、山車の登場まで禁止した。特に神田明神の祭礼における山車行列は、将軍の上覧さえあって、天下祭りとまで呼ばれていたのに、真先に禁止の槍玉にあげられた。
江戸っ子の好きな花火、縁台での碁・将棋などのほか、高級な菓子・料理・野菜の初物など、婦人の美服はもとより、櫛・笄・簪など、女が髪結いに行くのは贅沢、自分で結えなどと庶民のささやかな楽しみまで失うのだから、やりきれない。
庶民の心情を知り尽くしている景元は、まっさきにその緩和を主張したが、水野は一顧もせず、強行を命じた。
同年12月13日、景元は役宅に、同業者組合の株仲間をよびだし、やむなく解散命令を出した。景元自身この解散には反対だったので、迅速な命令伝達を命じられていたのを、この日まで延ばし延ばししていた。
その延引に対して、お叱りさえ受けた。しかし、景元はそれにもこりず、庶民の側にたって、水野の改革に反対の態度を崩さなかった。
それで、水野がおこり、天保14年(1843)2月24日、町奉行を罷免、大目付に役替えとなった。
ところが、衆口、金を鑠かすのたとえどおり、それから7か月後には、水野も改革失敗の責任をとわれ、老中罷免となった。
景元が勝ったわけで、それから2年後、弘化2年(1845)3月15日、昔とった杵柄の南町奉行に返り咲いた。
弘化4年3月22日、霊巌橋の埋立工事を行った褒美として、時服と黄金を拝領した。その埋立地は、現在中央区新川1丁目3番地となっている。
南町奉行の本所・深川の道路・橋・建物などの管理担当となっていたので、景元は埋立工事を施工したのである。
景元はその時の拝領金を、何か有効なことに遣いたいといろいろ考えていたが、「あっ、そうだ、刀を作ろう」
そう思いついて、さっそく当時幕府のお抱え鍛冶で、上手という評判の石堂是一を、自邸によんだ。
「長さから刃紋、彫物まで、これと同じような物を、作ってくれぬか」
そういって、備前長船盛光の一刀を差し出した。そして、経費はいくらかかっても、かまわぬとつけ加えた。
是一は盛光の刀をかりて帰り、それから一心不乱、全身全霊をかけて、製作にかかった。こんな特別注文になると、影打ちといって、一緒に数振り作ってみて、最上の出来のものを、差し出すのが常だった。
この場合、景元から費用はいくらかかっても構わぬ、と言われているので、是一は6振りも作った。
そのうち、我ながら良く出来たと思われる1振りを、盛光と同じく2尺2寸4分(約73.3cm)に仕上げた。
そして差し表に爪付き素剣と梵字、差し裏に爪つき護摩箸と梵字を彫った。それを本阿弥七郎右衛門忠正に研がせた。
見ると、見本の盛光とそっくりだった。自信をもって、中心の差し表に葵紋を彫り、その下に「為市尹遠山君 石堂運寿斎是一作」差し裏に「寛永元年八月日」と銘を切った。
それを遠山邸に持参すると、景元も眼を細めて眺めていた。
「うーむ。よく出来ておる。ご苦労ご苦労。切れ味はどうか、山田朝右衛門に試さしてみようか」
当時の山田朝右衛門は、幕府の罪人首斬り役の7代目で、名は吉利、のち吉田松蔭や頼三樹三郎らの首を落とした人である。
その吉利が千住(荒川区南千住5丁目)の刑場において、是一作の刀で試し斬りしてみたところ、死体の一ノ胴、つまり鳩尾の辺を斬ったところ、見事に一刀両断、さらに太々、つまり首の付け根を、左右の肩甲骨かけて斬ったところ、ここもまた一刀両断した。
喜んだ景元はさっそく是一に命じて、次のような裁断銘を追刻させた。
(表)(葵紋)為市尹遠山君 石堂運寿斎是一作
(裏) 寛永元年八月日
同年十一月於千住 一ノ胴裁断
同年同胴太々裁断 山田朝右衛門吉利
是一が自作刀の中心に、葵紋を切ることの許されるのは、伊勢神宮と日光東照宮に奉納する刀に限ると、弘化2年(1845)4月25日、腰物方の小倉十兵衛から申し渡されていたのに、ここで景元という個人の刀にも切っている。
これは景元が町奉行という幕府の重職にあること、さらに幕府からのご褒美金で造ったことなどから、敢て葵紋を切ったものであろう。
市尹とは市長のことで、町奉行ならば尹市と言うべきである。
ただし、両語とも中国では遣わない。日本製の漢語である。
大いに喜んだ景元は、当時是一の入念作の刀の相場は、15両だったが、その何倍かを支払ったという。
景元は寛永5年(1852)、還暦を迎えたのを機会に町奉行辞任を申し出た。幕府では名奉行としての多年の勤労に対して、4月21日、時服と黄金を贈ったのち、同月23日付で、町奉行を免じ、寄合入りを発令した。
越えて翌月16日、隠居を申し出たところ、聞き届けられ、養老料を賜ることになった。
その後は、息子の金四郎が西ノ丸目付として、家を継いだ。後顧の憂いもなく悠悠自適、帰雲と号して、雲のごとく自由に余生を楽しんでいた。安政2年(1855)2月29日、63歳で病没。
帰雲院殿松僊日亨大居士という法名をもらって、東京都豊島区巣鴨5丁目の本妙寺(法華宗)墓地に、父とともに眠っている。
日本刀名工伝より