三日月宗近(みかづきむねちか)
三日月宗近は刃長80cm、反り2.7cmの太刀で、細身で反りが高く、踏ん張りの強い極めて優美な太刀姿である。 この優美な太刀姿であるということが、この太刀の製作年代の古いことを物語るところである。すなわち、 「踏ん張りがある」ということは、元幅が広く、先幅が狭く、その差が大きいということを意味し、全体に元幅10に対して、先幅は五乃至五.五といったところが標準で、比率の差は極めて高い。 これがいわゆる太刀姿が優美である、という見方とつながり、平安文化の特色と軌を一にするところである。 それにこの太刀の最も大きな特色は、地金が綺麗であること、そして刃文は小乱を主調として小沸がよくつき上半は特に二重刃、三重刃となり、ほとんど他に見られない有様を示し、下半には特に刃縁に添って三日月形の「打のけ」と称せられる刃文が随所に見られるのもこの太刀の最も大切な見どころで、三日月という異名はこの焼刃の模様から出たものであろう。 打のけという刃文は鎌倉の終り頃の大和物には最もよく見られるところであり、自然、大和物の特色の一つとして考えられているが、誰がこれを説き始めたかはわからないが、それはそれで極めて当然であり、そしてその淵源は、こうして三条の宗近に始まると見ることも出来る。 宗近については、山城国三条に住したことから三条宗近の呼び名があり、一条天皇の永延の頃の人であるといわれているが、これは作刀に年紀のあるものは皆無であり、その他の傍証もないままに、殆ど伝説的に扱われていることは残念なことである。 これは申すまでもなく、この時代の職人は身分も低く、歴史にとどめられるようなことは、よほど特別の場合以外には考えられないことであり、刀鍛冶の来歴のわからないことは、当然といえば当然のことでもある。 謡曲に「小鍛治」があり、三条の小鍛治宗近が、時の帝の命を蒙って、天下守護の剣を鍛えることになったがこれは神助なくしては、凡人のよくするところではないとして、伏見稲荷に、名刀を鍛え上げられるようにと祈願をかけて、精進の結果、稲荷の神の加護によってめでたく神剣を鍛え得たことを謡っている。 この小鍛治という言葉は、江戸時代には稲荷の加護によるので「狐鍛冶」であるとか、「巧鍛冶」の訛りであるなどという説まで出たが、これは「大鍛冶」に対する「小鍛治」で、大鍛冶とは、山で鉄をつくる・・・・ すなわち製鉄業者のことであり、小鍛治とは、大鍛冶のつくった鉄を用いて種々の道具や刀など全てのものを作る人達の総称である。 従って宗近に限らず、刀鍛冶はすべて小鍛治であった筈であるが、ひとり宗近のみが三条の小鍛治の名前で呼ばれていることは不思議といえば不思議でもある。 もっとも、今一人、因幡の国に景長という刀工が鎌倉末期からニ、三代同名があり、これを「因幡小鍛治」と呼んでいる。 景長はもと山城国粟田口派の流れを汲む刀工といわれ、直刃の焼きを得意とするが、これも粟田口派の流れを汲むから小鍛治と呼ぶのであるとなれば、粟田口派の本流は当然皆そう呼ばれてよい筈であり、また直刃を得意とするものを小鍛治と呼ぶとすれば、これまた直刃を得意とする刀工は決して少なくない。 しかもいずれも小鍛治とは普通呼ばれていない。こうして考えて見ると、どうして限られた刀工のみが「小鍛治」と呼ばれているかがわからない。 三日月宗近の銘は、一般この時代の太刀の銘とは場所を異にして佩裏、すなわち太刀銘とは反対側に「三条」と二字銘がある。 室町時代の刀剣書から、宗近は銘を三条とばかり切ることがあり、これは宗近同人であると説いている。 そして宗近と銘する時は一般の太刀と同じく佩表に銘をきり、三条と切るときは佩裏に銘をきるのが常で、決して「三条宗近」とはきらない。 ところが、江戸時代以来有名な宗近の太刀で「宗近村上」と銘のあるものが、東京国立博物館にある。 これは終戦後、宮内庁から国に移管になったものであるが、これによって明治時代は、宗近の性は「村上」であるなどと説かれたものである。 ところが、今日自由に研究することが出来、自由に意見を開陳することが出来るようになった有難さからすれば、これは「近村上」と銘のあった太刀の上に「宗」の字を加えたものである。 近村は同じく三条に住し、宗近の流れを汲む平安末期の刀工であるが、あまり世間に名が知られていないために改竄されたものであろう。 「上」というのは「たてまつる」と訓んで、朝廷に献上などの意であり、「上助吉」とか「来國光上」などと銘したものがある。
新・日本名刀100選より