童子切安綱(どうじきりやすつな)
刃長80cm、反り2.7cm、鎬造り、庵棟、小鋒、腰反り高く、踏ん張りのある堂々たる生ぶ茎で安綱在銘の太刀である。 安綱は伯耆国の刀工で、その子と伝えられる真守の作に「大原」と銘したものがあるところから見て、安綱も恐らく大原に住したものであろうと推せられるが、安綱の作には安綱と二字銘以外に銘のあるものはなく、伯耆国と切ったものさえない。 江戸時代以来の刀剣書には安綱の時代を大同(1806~9)の頃と伝えているが、おそらく平安中期の頃まで時代は下がるであろう。 とにかく三条宗近につぐ古香がある。 童子切安綱は、室町将軍家の重代として名高く、当時は、鬼丸國綱、大典太光世、三日月宗近、数珠丸恒次とともに天下五剣と称えられ、歴史的にも最も名高い一本である。 童子切という号のいわれは、昔、丹波の大江山に住む山賊酒呑童子なるものを、源氏の大将源頼光がこの太刀で退治したことから、この号があるという。 鬼退治の物語は古来有名なものであるが、室町時代の御伽草子に書かれ伝えられたことであり、大江山絵詩、酒呑童子物語などに詳しく書かれているが、正史には丹波の大江山に征伐の軍を向けられたという記事はなくただ当時は処々に盗賊などの類がいて、人民を苦しめ、被害も決して少なからざるものであったであろう。 源頼光もしばしば勅を奉じて諸国の賊を退治した事実はあっても、後世どの史実を、大江山の山賊酒呑童子にあてはめたものであるかは明白でない。 童子切の異名も室町時代以来有名なものであったが、大江山物語はフィクションが多く含まれていることは否めないであろう。 しかも童子切は、同作の安綱在銘の太刀が比較的に多く現存する中で、安綱中第一等の作であることは、享保名物牒にも「極上々の出来、常の安綱に似たる物にあらず」と嘆称していることでも分かるであろう。 室町将軍家から秀吉の手に移り、更に家康、秀忠と伝え、秀忠から越前松平家に贈られ、後、越前家取り潰し の折りに、作州津山の松平家に移り、そのまま終戦時まで同家に伝来したもので、日本刀中の(横綱)と称せられているのは、時代も古く、地刃の出来が抜群であり、のみならず健全至極、伝来も立派というように全く非の打ちどころがないからである。 その後、個人に渡り、そして童子切は国の所有となり、今は上野の東京博物館にある。この太刀には、桃山時代の金梨子地に葵紋を金貝および金蒔絵にした糸巻の太刀拵えがあり、同じく葵紋蒔絵を施した立派な太刀箱がある。 これは恐らく越前家時代に製作されたものか、さもなくば元和8年、越前家改易後間もなく津山の松平家で製作されたものであろう。
新・日本名刀100選より