大典太光世(おおでんたみつよ)
前田利家の第一等の愛刀であり、前田家の三種の神器的な存在でもあったものに、筑後三池に住した典太光世の太刀があり、世に「名物大典太」と称している。 この太刀は長さが66.1cmと短いが元身幅が3.5cm、先身幅が2.5cmと身幅が広く、2.7cmと反りの高いもので 平安時代の太刀姿としてはやや異風であり、異例である。 しかしこうした太刀姿も、上古刀を基準として考えた場合は、あっても不思議でなく、中峰の猪首となった形も力強い。 いわば、これで寸法が長ければ、大包平や久能山の真恒と同様な太刀姿のものになるが、この太刀はズングリとして、重ねが薄くそれに幅の広い底の浅い巧みな樋を掻き流しているなどの点が、三池典太の特色ある造り込みであり、太刀姿でもある。 鍛えは大きく板目肌が流れ、処々に大肌が交じり、地肌が白けている。この地肌の白けることは、ひとり大典太に限らず、古い九州物全体に通ずる大切な見どころでもある。 そして直刃が浅く湾れごころとなり、全体にほつれごころがあり、目釘孔の下に「光世作」と三字銘がある。 この太刀は、もと足利将軍家の重宝で、二つ銘則宗、鬼丸國綱とともに、尊氏以後十三代の長きにわたって伝承されたものであり、一方、一期一振吉光、数珠丸恒次、三日月宗近、童子切安綱とともに、室町時代以来「天下五剣」と称せられたほどの名刀である。 足利将軍家から豊臣秀吉の手に移ったが、前田家に伝来するに至った事情については、享保名物牒には前田利家の息女は、浮田秀家の奥方であったが、昔その息女がえたいの知れない重病にかかられた。 その時秀吉の秘蔵であった大典太光世の太刀を借り受けて、その病床の枕もとに置いたところが忽ちに病気は快癒せられた。 そこで御礼を述べて秀吉に返したところ、また病気が再発した。そこでまたお借りして枕もとにおけば、忽ち病気が快癒するといったことで、三度も繰り返した。 三度目にはそのまま利家が拝領することになったという不思議な物語を載せている。
新・日本名刀100選より