日光助眞(にっこうすけざね)
助眞は福岡一文字助房の子と伝え、鎌倉中期の福岡一文字派最盛期において活躍し、後に鎌倉幕府に召されて鎌倉に下り、鎌倉鍛冶の開拓者の一人となったといい、世に鎌倉一文字の呼称がある。 当時鎌倉に下った刀工はこの助眞とその子という助貞と助綱、備前三郎國宗、および山城から粟田口國綱であったという。 助眞の作風は、鎌倉に下っても備前福岡一文字風の作を変えなかったと言われているが、今日現存するものについて見るに(一)には匂出来で、映りがよく立つもの、(ニ)には、匂深く、更に小沸がよくついて、地にも乱映りが立ってはいるが、地も刃も一般福岡一文字の諸工に比べれば一段と沸強く出来たもの、及び(三)には刃文がやや地味になり、小沸出来で、地沸も冴えて殆ど映りが立たず地景の目立つものがあり、このうち強いて言えば、(二)、(三)のものが、鎌倉移住後の鎌倉打ちということになろう。 助貞は現存するものが極めて少なく、助綱は重要美術品に認定されているもの二口を始め他にも二口ばかりある。 これ等も、小沸出来で、地沸が強く映り気は少なく、ただ助綱の刃文には、一般一文字の丁子とは趣を異にして大乱風となるものがある。 名物日光一文字は、刃長71.21cm、反り2.88cm、元幅3.21cm先幅2.4cm鋒長3.79cmという鎬造りで庵棟、身幅広く、重ねが厚く、中鋒猪首となり、10cmばかりを磨上げながら、腰反りなお高く踏張りある豪壮な太刀姿である。 そして鍛えは板目肌やや流れごころの肌立ち、地沸つき、乱映り立ち、刃文は焼幅広く、大丁子乱れに尖り刃など交じり、佩表は特に焼刃に高低を見せ、足、葉頻りに入り匂深く小沸つくなど、この工の最高作風を示して残すところがない。 表裏に棒樋を掻流し、茎は磨上げて先は浅い栗尻、目釘孔2、もと目釘孔の上、樋を掻流した下、棟寄りにやや大振りの二字銘がある。 この太刀は備前福岡一文字派本来の面目を見せながらやや沸がつき、地鉄が明るく冴えるなど、鎌倉気質の片鱗を見せている。 徳川家康の愛刀の一口で、日光東照宮の神殿深く祭られていることから、日光助眞と号し、享保名物牃にも記載している。 そして、この太刀には家康好みのしぶい黒漆塗の打刀拵えがあり、柄は黒塗鮫にお玉杓子の赤銅の目貫を据えて藍革で菱巻にし、鉄の地透の鐔、後藤家の渋い小柄、笄を添えて、紺糸の下緒がつけられている。 これを助眞拵えと呼び、好事家がいわゆる天正拵えの手本として賞翫し、大正以来は種々の模造も行われている。
新・日本名刀100選より