大般若長光(だいはんにゃながみつ)
備前長船長光は光忠の子で長船二代をつぎ、名工の誉れが高い。殊にひとり備前の刀工に限らず鎌倉時代の刀 工として、長光ほど今日多くの作刀を残しているものは他に類がない。 加えるに現存する長光の作は身幅が広く、堂々たる太刀姿で父光忠の作に似たものと、逆に細身で直刃調の 小丁子を焼き極めて穏やかな作風のものとを問わず、それぞれに作柄が優れ、殆どいわゆる出来の劣るものが なく、従って長光の平均点は極めて高いものである。 その中で、最も父光忠に迫るほどの作風を見せているものが、名物大般若長光の太刀である。 大般若長光は、長篠の戦功を賞して、徳川家康から家臣奥平信昌に与えられたもので、室町時代以来の大名 物であり、長船長光の第一等の傑作として有名である。 大般若の異名は室町時代にこの太刀の代付が、他に殆ど比類を見ないほどの六百貫という高価であった。代 付とは、必ずしもその値段で売買されるということではなく、それだけの価値があるという一つの標識という か、格付けでもある。六百貫というのは銭のことで、一文銭は一匁目の目方であり、江戸時代には、銭一千文 がすなわち一貫文で、銭百貫文を金に換算すると大判五枚に相当した。 大判一枚の目方が約四ニ匁が普通で、六百貫は大判になおして三十枚、一両小判で三百両となる。この代付 は当時として大変な破格のものであったことは、天正19年(1591)の奥書のある刀剣書に「諸国鍛冶代 付の事」の一条があり、それによれば最高が百貫で、宗近、吉光、國綱、行平をあげ、次は五十貫で正宗をあ げ、その子の貞宗が三十貫となっていることでもわかる。 従って大般若の異名は、このとてつもない高い代付が大般若経六百巻に字音が相通ずるところから洒落で名 付けたものである。 この太刀は信昌から、後に家康の養子になった武蔵国忍の城主松平忠明に伝えられ、代々同家の重宝として伝 来したが、大正年中に売りに出され、故伊東巳代治伯の秘蔵の一刀となったものである。 伯の歿後、昭和14年に当時の値段で五万円という抜群の高さで帝室博物館が買入れた時には、帝室博物館 はべらぼうな値段で大般若長光を買入れたが、何かあるのではないか、などとこれに対して世間のやっかみ家 連中に噂されたほどであった。それ程この大般若長光は名刀であり、有名なものでもある 信昌は長篠籠城の功によって主君の家康からは大般若を、そして信長からは一文字の太刀を賞与されたが、 これによっても今更ながら、長篠籠城の意義がいかに大きなものであったかがわかる。
新・日本名刀100選より