名物有樂來國光(ゆうらくらいくにみつ)
來國光は來國俊の子または弟子と伝え、鎌倉末期から南北朝にかけて同名ニ代あるとするのが古来からの説である。 実はどこからが二代目かということは容易に決し難い問題であるが、貞和(1345~50)、観応(1350-51)などの南北朝の年紀のあるものは、明らかに銘字も相違し、作柄も劣る点から見て二代であることは明白である。 來國光は來國俊と同様に太刀・短刀ともに上手で、しかも太刀にも短刀にも身幅の広い寸延びの堂々たる体配のものと、細身で小振りのものとがあり、概しては大振りのものに傑作が多い。 短刀で最も大きいものが名物の新身來國光で、大きさからも、また健全さからもあたかも新身(新刀)のようであるというところから名付けられたものであろう。 それにつぐ大きさの短刀の一本に有樂來國光がある。この短刀は長さが27.72cm、元幅2.73cmと大振りで平造り、三つ棟、僅かに内反りがつき、重ねも厚くしっかりしている。 鍛えは特によく、小板目がよくつんで地沸がつき、明るく冴え、刃文はこの工には珍しい湾れに互の目を交じえ、砂流しかかり、匂口冴えて沸よくつき、帽子は乱込んで沸つき、先を掃かけて火焔風となってやや長く返るなど見事であり、表に巧みな素剣を掻流し、裏には彫物がなく、茎は生ぶ、僅かに反りついて先栗尻、目釘孔三、目釘孔の下、中央に三字路がある。 この短刀は享保名物牒に所載し、それによれば、「表剣、秀頼公恩物。信長公の御舎弟源五郎平長盛入道有樂この仁拝領にて所持也。光甫(本阿弥)取次ぎ利常卿(前田)御求め、淡路守殿へ進めらる。御金のかたに又又加州御家に来る」とある。 有楽町で知られている織田有樂が所持したことからこの号があり、江戸時代は加賀の前田家に伝来し、終戦後同家を出たもので、同作中の白眉と称すべき名短刀であり、出来が優れているばかりでなく、健全至極のものである。
新・日本名刀100選より