九字兼定(くじかねさだ)
美濃国関の兼定は三阿弥兼則の子といい、兼長に学ぶという。 この兼定には康正(1455-56)、文明(1469-79)などの年紀を見、これを初代として、二代に明応(1492-1500)年紀があり、文亀2年(1502)作銘のものから「定」の字が「
」と、いわゆる「ノサダ」となり、永正元年(1505)2月年紀の短刀の銘に「和泉守藤原兼定」と受領銘がある。 古刀期においても、刀鍛冶が受領している例は別に珍しくはないが、ただ「守」の受領は頗る少なく、兼定が和泉守を貰ったのが最初であろう。 これも美濃国と朝廷との関係が深く、その仲介は斎藤氏の重臣で、関の領主であった長井藤左衛門尉長弘であったであろうとするのが妥当な説である。 九字兼定は永正十年前後の作と鑑せられ、刃長70.56cmで鎬造り、庵棟、2.1cmと先反りがつき、中鋒の平肉をおとした鋭い造り込みである。 鍛えは板目大いに柾がかり、総体に白けごころがあり、刃文は湾れた互の目を交えて、匂口沈みごころに小沸つき、帽子は湾れごころに先掃かけ、茎は僅かに磨上げて殆ど生ぶ、先切り、鑢目やや立った筋違、佩表の棟寄りに細鏨で和泉守藤原兼定作と「ノサダ」銘に長銘があり、裏に同じく「臨兵闘者皆陣烈在前」と九字をきっている。 「ノサダ」は室町時代における関鍛冶中、第一の名工で赤坂の兼元と双璧と称せられているが、兼元は三本杉を看板として、僅かに直刃出来が交じる位であるが、「ノサダ」はこれに反し、湾れ、互の目、互の目丁子を得意とする他に京写しを最も得意として、來一門の作に迫るほどのものがあるなど作域が広い。 この刀は先祖志津の作に私淑して湾れを焼いて出来がよく、且つ面白いことに九字をきっている。 九字は形であらわす時は、
となり横が五本、立てが四本となっており、これを画くときに、口に「臨」と唱えて横線をひき、次に「兵」と唱えて縦線を引き、次に「闘」と唱えて横線、次は「者」と唱えては縦線をひいて九字となるのである。 これを「九字をきる」といい、邪を払うおまじないというよりは祈念である。 室町時代の刀にまま、九字の印や、文字をきったものを見るが、兼定の他には平安城長吉、長船与左衛門尉祐定などに見ることがあり、新刀でも桃山時代のものにこれを見、江戸時代にも僅かに見られる。 この九字の訓に方は果して如何なることかよくわからないが、「兵闘ニ臨ム者ハ、皆、陣烈前ニ在リ」とでもいうのであろうか。それにしても意味がよくわからない。 修験の人達にでも教わらない限りは駄目であろう。 和泉守兼定は、名人であり、世間に名高いだけに、偽物が極めて多く、全く油断のならないものであることを銘記されたい。
新・日本名刀100選より