五字忠吉(ごじただよし)
肥前佐賀の鍋島家の抱工に橋本新左衛門忠吉がいる。 明治17年に十代目橋本謹一が宮内省に差出した書類によれば、初代の忠吉は道弘の子で、父の道弘は天正12年(1584)3月24日に竜造寺家の島原の戦の時に討死をしている。 この時忠吉はまだ13歳であったがために、軍役叶わずとして知行断絶したが、忠吉は親族の鍛冶の家に寄食して伝来の鍛錬の道を修業中、鍋島勝茂から戦功ある家柄であったということであらためて取立てられ、世禄二十五石を貰うようになった。 そして勝茂の命令で慶長元年に上洛して、埋忠明壽の門人となった。時に忠吉は25歳であった。それから修業をおえて帰国したのが慶長3年で、その時橋本一類15人、番子60人を引連れて、長瀬村から佐賀城下に移り、その一門が大いに繁栄した。 そして元和10年(1624)には再び上京して、武蔵大掾に任じ、禁裏から藤原の姓を賜い、同時に名を忠廣と改めた。その時、忠吉の名前は弟子の土佐守忠吉に譲ったものである。 肥前国忠吉と銘しているものを世に五字忠吉という。これは初代忠吉のことであったが、一門後代の中には土佐守忠吉、三代陸奥守忠吉、四代近江大掾忠吉、五代、六代の近江守忠吉、八代忠吉ともに五字に銘したものがあり、同時に年紀のあるものが殆ど初代の五字銘以外には無いところから、その代別を区別することが困難であり、加えるにその間に偽銘が沢山に介在していることも研究を困難なものにしている。 この忠吉は刃長67.27cm身幅は尋常で、反りは1.21cmと浅い。反りの浅いものは新刀に共通する刀姿であるが、一般に肥前刀は新刀の中では反りが高く姿のよいものであるが、この点この刀はやや例外である鎬造り、庵棟、中鋒やや延びごころとなり、鍛えは小板目肌よくつんで杢交じり、地沸細かにつき地景かすかにあらわれ、鉄色は冴えている。 刃文は直刃が浅く湾れごころを帯び小足入り、僅かに砂流しかかり、金筋を交じえ、一般に匂深く小沸がよくついて美しく、帽子は小丸に僅かに返っている。 茎は生ぶで、先は栗尻、鑢目僅かに勝手下りとなり、佩表、棟寄りにやや太い鏨で大振りの肥前国忠吉と五字銘がある。その銘振り作風から見て、慶長17、8年頃の作であろう。 初代忠吉は始め小湾れに互の目を交じえた志津風の作を得意とし、慶長5,6年頃の作は皆そうした出来である。これは一説に藩主鍋島勝茂は志津を好んで、ためにそうした作を多く作らせたという。 これも或いはその通りかも知れないが、あにはからんや、忠吉の師である埋忠明壽は、そうした志津風の作一点張りの刀工であった点から考えれば師風を継承しての作ということが出来よう。 その後、二字國俊や、來國光に倣って丁子や直刃を焼いて抜群の才を発揮し、肥前刀に不朽の名声を樹立している。 子孫門葉もまた皆上手で、先祖の名をおとさぬものがあり、その繁栄は驚くべきものがある。
新・日本名刀100選より