津田越前守助廣(つだえちぜんのかみすけひろ)
津田越前守助廣はそぼろ助廣の二代目で、摂州打出、今の芦屋市に寛永14年(1637)に生まれた。 通称を甚之丞といい、そぼろ助廣に学んで後その養子となり、明暦元年(1655)初代の死後、19歳で家を継ぎ、同3年には21歳の若さで越前守を受領し、寛文7年(1667)には大坂城代青山因幡守宗俊に抱えられて以後、多くの名作を残したが、天和2年(1682)この天才は僅か42歳でこの世を去った。 助廣の作には刀、脇指ともに多く、それ等は皆鎬造りであり、他の変わりの造込みのものは極めて稀である。 ただ一本、平造りの短刀があって、これまた上手であり、その他槍や薙刀は殆どその例がない。 刀や脇指は、総体に皆身幅がやや広めで反りが浅く、物打辺からやや身幅をせばめて中鋒となり、やや延びごころのものはあっても大鋒となるものは皆無である。 そぼろ助廣は、河内守藤原國助の弟子で、いわゆる石堂一派であり、丁子乱を得意としており、越前守助廣も始めは初代風の丁子乱を焼いているが、後、濤瀾乱を創始し、また直刃も極めて上手で、乱刃と直刃との両様があり、直刃は約三分の一位である。 延宝7年紀の助廣は、刃長71.21cm、反り1.52cm、元幅3.1cm、先幅2.1cmで鋒長は3.64cmである。 即ち鎬造り、庵棟、中鋒、反り浅く、先幅はややおちて寛文新刀の形を示して、それだけに姿が整っている。 鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸細かにつき、地色青く冴えて美しく、刃文はこの工の創始になる濤瀾乱で、匂あくまで深く、匂口冴えて明るく、小沸が叢なくよくつき、足が見事に入って働きを見せ、帽子は浅く湾れ込みごころに先は小丸に返り、僅かに掃かけ、茎は生ぶで、やや長めに先は入山形となり、化粧鑢を巧みにかけて下は大筋違である。 表目釘孔の下に、棟寄りに津田越前守助廣と七字銘があり、裏は目釘孔より一字上げて延宝七年二月日と年紀がある。 裏銘を一字上げるのがこの工の銘のきり方で、そうでないものは全部偽物である。 いずれの道によらず、師や父よりも優れるということは大変なことであるが、助廣は夙に出藍の誉れが高く、大波の寄せて返すような濤瀾乱を創意工夫して、今後の大坂新刀のみならず、新々刀にまでも大きな影響を及ぼしている。 特に地刃の冴えは見事で、大坂の井上眞改、江戸の長曾祢虎徹とともに新刀中の驚異である。この刀は彼の42歳の時の作で、技倆が最高潮に達した時代であり、同作中第一等の出来ばえである。 因みに極めて稀であるが、助廣に彫物を見るが、これは彫物師の手になるものである。
新・日本名刀100選より