虎入道(とらにゅうどう)
長曽禰乕徹はほぼ慶長十年(1605)頃に越前に生まれ、もとは家代々の甲冑師であったが、世の泰平につれて、甲冑は自然無用のものとなったためであろう、明暦二年(1656)頃に五十歳位で江戸に出て刀鍛冶に転じた。 乕徹は一書によると通称を三之丞といい、興里と名乗ったが、入道して「こてつ」といい、さいしょは「古鉄」の文字を用いたが、後に「虎徹」の文字をあて、更に「乕徹」と改めている。 古鉄は恐らく古い鉄の処理方法に通じて、それを得意としたからの意と思われ、虎徹は支那の故事に、李廣は虎にその母を殺されたが、何とぞしてその敵を討とうと志し、弓矢をたずさえて山野をさまよう中、草むらの中に虎を見つけ出し、それを撃った。しかも弓の矢が没する程射込んだのである。 ところが近寄って見るとそれは虎ではなく、石であったという。 すなわち一念によって石をも徹することが出来るということから、一念名刀を創ろうと思って虎徹と改めたものであろうという。 この改字の時は恐らく万治の二、三年(1659,60)頃のことであろう。 乕徹の師については、古来諸説があるが、その作風から見て、同郷の先輩である和泉守兼重に師事したものであろう。 乕徹の江戸における住所については明白でないが、一説には初め本所割下水に住し、後に上野池の端、湯島等に住すといい、乕徹の作刀に見る銘文には、「東叡山忍岡辺」とあって、これが一番確実ではあるがこの忍岡辺(しのぶがおかのほとり)とは果してどの辺を指すのであろうか。 「乕徹の研究」には大久保一翁の説として「上野お花畑の附近」とあり、お花畑は今の上野の精養軒の附近で明治以降花園町と改められている。 そして今の五条天神社の裏に「乕徹の井戸」と伝えられている井戸がある。あるいは案外この辺かも知れない乕徹の作刀に見る最後の年紀が、延宝五年二月であり、「乕徹の研究」には延宝六年六月二十四日に没したと断じているが、大過ないものと思われ、従って乕徹が出府以来、鍛刀生活二十余年、七十二、三歳で没したものと思われる。 乕徹の鍛刀上の理想は、見せる刀というよりも、切れる刀にあったように思われる。 乕徹が忽ちに名声を挙げたのは、山野勘十郎、同加右衛門父子の協力を得て試し切りの結果を金象嵌にして宣伝したこと、そして目新しい数珠刃を焼き、甲冑師として鍛えた彫物によって人目をひいたことにあろう。 のみならず、乕徹の怠らざる努力と天分とが加わって、多くの名作を造り、今日の名声をかち得たものである寛文十一年紀の虎入道の刀は、刃長七一・二センチ、鎬造り、庵棟、元幅三・一八センチ、先幅二・一八センチと先がやや細く、反りは一・五二センチとやや浅い。 鍛えは板目肌細かによくつみ、地沸くよくついて地がねが澄んで冴え、刃文は互の目に湾れを交え、足太く入り、匂深く、小沸よくつき、匂口冴えて明るい。焼込んで先小丸に返り、茎は生ぶ、先は栗尻、鑢目勝手下り表棟寄りに細鏨で力強く、住東叡山忍岡辺、下に行をかえて長曽禰虎入道とあり、裏に同じく棟寄りに寛文拾一年二月吉祥日とある。 乕徹の銘はその年代によって、さまざまに変化するが、一番長い期間にわたって使われているのが、「長曽禰興里入道乕徹」銘であり、ほぼ完成期の寛文十一年から二、三年の間は虎の字の最後の画を勢いよく虎のしっぽのようにはねあげた銘がある。 この刀は同作中でも最も優秀な一本であり、虎徹の刀四本が重要文化財に指定されている中の一本である。
新・日本名刀100選より