日 本 刀 の 歴 史

鎌倉時代・前期(1184年~1333年)

 藤原時代の貴族政治が崩壊しはじめてから武家政権へと進展するにつれ、刀剣の作風も時代の影響を受けて、藤原時代の優雅な作柄に強みが加わり、優壮な太刀に変っていきました。 しかし今日から見れば、まだ王朝時代の高貴な作風は失われておりません。 この時代は特に後鳥羽上皇の御番鍛冶を中心とした時代です。 上皇は源頼朝の歿後、王政復古の理想を実現しようとして、まず北条氏の討伐を計画し、北面、西面の武士制度を設け、全国より忠勇の武士を招集されるとともに、国内の名匠を京師に集め、御番鍛冶の制度を定め、御趣味の道にことよせて上皇方の士気を大いに鼓舞されたことは明瞭で承久記に 「・・・・次家、次延に作らせて御手づから焼かせ給いけり、公卿、殿上人、北面、西面の輩、御気色よき程の者は皆な給わりて帯びけり・・・」とあります。  そしてこれ等の刀匠には左衛門尉、あるいは刑部丞、権守等の高位、高官の位階が授けられこれに加えて多くの所領を賜りました。 彼等が往来する時には数多くの従者を従え、その威望は郡司、国守もおよばない有様であったので、当時身分の賤しい者が出世できる唯一の近道は刀鍛冶になることであるというので、各地に雲霞のように無数の名工、巨匠の輩出を見るにいたりました。 つまり刀匠の地位の向上と生活の安定は、必然的に日本刀の黄金時代を現出したわけです。  上皇の御作は中心の鎺の下に十六葉の菊を彫り、銘の代りとされましたので、菊御作といって今も数振の遺作が残っています。 また全国より召された御番鍛冶は、それぞれ月番を定めて太刀を鍛えました。 御番鍛冶には諸説があり、一部明確でない鍛冶もいますが、観智本所載を基本として記せば、前後を通じて42名程いました。 その内訳は、備前26人、山城7人、備中4人、美作2人、大和、伯耆、豊後各1人となっており、特に奉授工は粟田口久国と福岡一文字信房の両名が担任しています。  後鳥羽院御番鍛冶  奉授鍛冶2名          粟田口久国、備前国信房  御番鍛冶12名    1月 備前国則宗           7月 備前国宗吉    2月 備中国貞次           8月 備中国次家    3月 備前国延房           9月 備前国助宗    4月 粟田口国安          10月 備前国行国    5月 備中国恒次          11月 備前国助成    6月 粟田口国友          12月 備前国助近  隠岐国御番鍛冶6名    1月、2月 粟田口則国    7月、 8月 備前国宗吉    3月、4月 粟田口景国    9月、10月 備前国信正    5月、6月 粟田口国綱   11月、12月 備前国助則  御番鍛冶24名  御番鍛冶24名は毎月2名ずつの月番を定めて太刀を造った制度で、特にこの制度には諸説があり、中には後世の"でっち上げ"であるとさえ述べた説もありますが、通説は次のようにいわれています。    1月 備前国包道  粟田口国友    2月 備前国師実  備前国長助    3月 大和国重弘  備前国行国    4月 備前国延房  豊後国行平    5月 備前国包近  備前国近房    6月 備前国則次  備前国吉房    7月 備前国朝助  伯耆国宗隆    8月 備前国章実  備前国助延    9月 備前国包末  備前国信房   10月 美作国朝忠  美作国実経   11月 備前国包助  備前国則宗   12月 備中国則真  備前国是助 【参考】隠岐国御番鍛冶とは後年、後鳥羽上皇の軍が承久の乱で敗北し、鎌倉幕府(北条義時)の圧力に屈して隠岐島に流された時、上皇の御気晴のために設けられたものと伝えられています。