日 本 刀 の 歴 史

鎌倉時代・中期(1222年~1287年)

 後鳥羽上皇の公卿方の敗北に終わった承久の乱後の兵馬の権限は、完全に鎌倉幕府の手中に帰し、鎌倉を中心とした武家政権の時代にはいり、藤原時代のような優美な作風は失われて、質実剛健の鎌倉武士の気風にそう堅実味のある、しかも華しい刃文の太刀時代と変りました。 つまり鎌倉初期から中期にわたって、備前国から備前三郎国宗と福岡一文字助真が、山城国より粟田口国綱が、その一門と共に来て、鎌倉鍛冶の基礎を築いたのです。 助真は藤源冶一派を樹立し、国宗、国綱はその伝法を新藤五国光に伝え、国光は行光に、行光は我が子、五郎正宗に伝えました。  一時平静を保っていた国内も、後期に近づくにつれて国内の紛争や、外敵蒙古の襲来に備えて武士の士気はますます上り、これに応えるため太刀は、一層豪壮味を増し、長寸で反り深く、身幅広く、重ね厚く、平肉付き、猪首切先になった作柄が愛用され、全国に普及しました。 (これは当時の鍛刀法で堅いものを斬るためにその姿と重さが要求されたわけです) すなわち相州鎌倉においては、大進坊祐慶、正宗の父行光、長谷部国広、山城国においては来国行、二字国俊を筆頭に来系が鎌倉武士の援助を得て豪壮な作品を鍛えて繁昌しました。  一方、京都では粟田口や綾小路一門が、その全盛を誇っていますが、これは、皇都という特殊事情で他の諸国の流派と異なり、多少前代より姿や焼刃に強味を増したとはいえ、山城伝の優美さを維持しています。  大和国では南都の僧兵の需要に応じて当麻寺に関係のある当間国行をはじめ、千手院、尻懸保昌鍛冶等みな優秀な作品を遺しています。 また備前国では衰退した福岡一文字に代り、長船鍛冶中興の名匠光忠が現れ、そ子初代長光、真長や畠田守家等が備前正伝としては最も力強い作品を造っています。 その他筑後国の三池光世、および備中国の中青江とよばれるグループも、前記同様の豪壮な数多くの作品を残しています。