日 本 刀 の 歴 史

鎌倉時代・後期(1288年~1333年)

 文永、弘安の二度にわたる元軍の来襲による実戦の結果、従来の日本刀は多くの欠点を暴露しました。 たとえば最も損傷し易い切先が、猪首切先では、一度の戦いで刃にこぼれが生ずれば研ぎがきかず、刀全体が駄目になり、また平肉のついたものでは、切れ味が悪く、多数の人を斬るためには、さらに焼入れ、鍛錬法の強化が必要となってきました。 これらの欠陥を補うための努力したのが当時の青年刀匠五郎正宗です。  正宗は父の行光より山城伝の秘法を受け継いだだけでなく、研究に研究を重ねついに新しい相州伝を完成して鍛刀界に大きな革命を起したのです。 国内の権力争いや蒙古襲来の実戦の結果従来の山城伝や大和伝、備前伝の太刀は公卿や武将の体裁をつくろうための一種のアクセサリーで、実戦の場合にはわずかに鎧兜の隙間を見つけて突くか斬りつけるかで、鎧兜の上から斬りつけることはとうてい不可能であったこと。 また新工夫の猪首切先や平肉のついた太刀では、前述のような欠陥が現れてきました。  これまでの太刀は、柔かい鉄を弱い火加減で焼き上げていたが、切れ味を更に向上させるためには、硬い鉄をよく鍛え、強く焼き急激に冷却して硬度を上げ、刃を強くしまた反りの深い姿をころ合いにし、平肉を少し、重ねを薄くする、こうして造られた太刀は、よく切れるが堅い物にあたると刃がこぼれ易く、太刀自身も折れることが多いのです。 そこでこの欠点を除くため正宗は苦心研究の結果、硬軟両種の鉄を適度に組み合わせて地肌を板目鍛という鍛え方にすることでによってこれを防ぎ、いわゆる強靭なものを造り、実用兼美の相州伝を完成したのです。 いいかえれば、正宗は日本刀の理論家であり、かつ、名匠だったわけです。  当時代の作風は長寸で京反り浅く、重ねが薄くまた平肉が少く、切先延び(猪首切先ではない)フクラは枯れています。 刃文は焼幅が広く焼が強い。また樋先は必ず下り、切先まで上らない彫り方です。 この樋先の上らないことは切先が損傷した際に切先を下げて修正することが出来るからです。  鎌倉時代の名匠の分布状況は全国におよんでいますが特に相州が加わり、伝統的に山城、備前、備中の国が多いです。 山城国   粟田口系・・・・・久国、国安、則国(初期)、国吉、吉光(中期)     綾小路系・・・定利、定家(中期)、定吉、了戒(後期)     来  系・・・国行、国俊(中期)、来国俊、光包、来国次、来国光(以上後期) 大和国   千手院系・・・・・力王、定重(中期)、義弘(後期)   当 麻 系・・・・・国行、国清(後期)   尻 懸 系・・・・・則弘、則長(後期)   保 昌 系・・・・・貞宗、貞吉(後期)   手 掻 系・・・・・包永(後期) 相模国   粟田口系・・・・・国綱(初期)、国光、国広、大進坊(中期)   相 州 系・・・・・行光(中期)、正宗、貞宗(以上後期)   備 前 系・・・・・国宗、助真(中期) 美濃国   相州伝系・・・・・兼氏、金重(後期) 越中国   相州伝系・・・・・郷義弘、則重(後期) 備前国   福岡一文字系・・・則宗、助宗、信房、延房、宗吉、信包(以上初期)            則房、助房、助真、宗忠、吉用、吉元(以上中期)   吉岡一文字系・・・助吉、助光(後期)   長  船 系・・・光忠、順慶長光、景秀、真長(中期)            将監長光、景光、近景、初代兼光(後期)   畠  田 系・・・守家(中期)、真守、守重(以上後期)   鵜  飼 系・・・雲生、雲次(後期)   国 分 寺 系・・・助国(後期) 備中国   青 江 系・・・・貞次、恒次、康次、正恒(以上初期)            助次、貞次、重次、守次(以上中期)            吉次、次吉、信次、久吉(以上後期)   片 山 系・・・・則房(中期)、真利、次直、近次、秀次(以上後期) 西 国   筑 前 国・・・・西蓮(中期)、実阿、左文字、国弘(以上後期)   筑 後 国・・・・三池光世(中期)、義行、利延(以上後期)   肥 後 国・・・・国村、国泰、国吉、国時(以上後期)   豊 後 国・・・・定秀、行平、正恒(初期)   薩 摩 国・・・・行安、安行(以上中期)、家安、安光(以上後期) 正宗十哲   備前国兼光及長義、左安吉、来国次、長谷部国重、郷義弘、越中国則重   志津三郎兼氏、美濃国金重、石州直綱